心の器を盛り付けよう

理想のオッサン像がある。

小麦色に焼けた肌。

ナチュラルに引き締まった身体。

人にアドバイスを求められた時、「ええがな、ええがなー」と受け入れ、背中を押しあげられる器のデカさ。
農業やってたら日焼けするし、身体もまぁそこそこは引き締まるけど、この「器のデカさ」ってのが難しい。
器がデカく、カッコええオッサンってのは、まん丸ではないよなぁ、と最近思う。
カッコええオッサンてのは、どこかクセがあり、それを人に押し付けることなく、その窪みで人を許容し、独特なその形で人を魅了する。

そして、

些細なことに動じず、どっしり構えて、今を楽しむ。

そんなロールモデル。

身近にいた。

ヒツジだ。
柵の中は外敵が来ないから安全で、餌も与えもらえるけど、食べられる草の量には限りがあり、柵の外に生える草を見ながら1日を過ごす。
だからと言ってふさぎ込む様子もなく、日がな木陰で悠々と昼寝に勤しむ姿を見て、「受け入れる」ということの大切さを感じる。
デカい男になりたい、そう思って生きてきた。
でも、ウツになったりしたのは、器のデカさを勘違いしていたからのような気がする。
俺は、人に合わせること器のデカさやと思ってたんやろう。
基本的には何でもアリやと思うし、相手が喜んでくれる方がええから、人に合わせる。
でも、そこで自分を抑えつけ過ぎたんやと思う。
思ってることは言えばええ。

相手がどう思い、どう動くかは自分の問題ではなくて、コントロールできるもんでもなく、ましてや正解なんてもんはないやろう。
何でも言えばええってもんじゃなくて、相手への配慮が必要なのは言わずもがなやけど。
人は欲深い生き物や。
もちろん僕もそうで。
それを、否定するんじゃなくて、それも受け入れる。
それにコントロールされるんじゃなくて、それをコントロールする。
他人だけじゃなくて、自分も受け入れる。
もっと給料上げて欲しい。
もっと優しくして欲しい。
もっと相談して欲しい。
もっと、もっと。
「もっと」はスペースのあるところにしか入らない。
「もっと」を求めるなら、自分の器をデカくする以外に方法はない。
では、どうやったらデカくできるのか?
それは太っていく身体に似てると思う。
一朝一夕でデカくなるもんやなくて、少しずつ受け入れ続けることで、キャパシティが増え、気付いたらデカくなっている。
ただし、デカくあることが正解って訳でもないとは思う。
小鉢にチャーハン大盛りしようとするから、こぼれてカッコ悪いのであって、珠玉の一品を盛りつければ人を魅了できる。
人生をどう盛り付けたいか?
そこがポイントなんやろう。
欲張りな僕は、どんどん器をデカくしたいから、

自分で作った柵を乗り越えて、

誰も見たことないような草を探しに行こうと思う。

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